今週の週報より(巻頭言)

巻 頭 言

 

2024年11月17日(日)

「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」 ヨハネ伝13章34節

 本日は、矢野眞実(まこと)先生による特別礼拝となりました。先生におかれましては、東京志村教会の出身で、サザンバプテスト神学校に留学され、長崎教会を初めてとして、4つの教会を牧されました。連盟の宣教主事の働きもなさいました。今回は、鹿児島教会の為に、来て下さり、研修会も持ってくださいます。心から感謝に耐えません。

 実は私は、まだ神学生にもなっていない信徒の時代に、長崎教会を訪ねたことがありました。その時、先生は何か教会の行事で忙しくされており、自分の対応は、牧師夫人がしてくださったことを覚えています。何を話し、何を教えていただいたのか全く記憶がありません。ただ、突然訪ねてくれた一人の他教会の信徒でも、きちんと相手をして下さって、気持ちよく信仰の対話してくださった事は忘れません。もしかして、話の内容よりもそんなことが、記憶に残るものかもしれません。

 この度は、私は突然の手術となり、ここにいないのですが、良き礼拝とよき研修の時となりますように、祈ります。先生の賜物が大いに用いられることを祈ります。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年11月10日(日)

「初めに、神は天と地を創造された。」 創世記1章1節

 本年は、コロナが始まって5年目になりますが、4年ぶりの日曜参観後の礼拝となりました。4年前は1年に一度日曜参観があって、父母の方に呼びかけて参観礼拝に出て頂いておりました。しかし、コロナが発生してできなくなりました。

 その目的は、ここは教会設立の幼稚園であり、ご父母の方に、礼拝の雰囲気を知って頂き、どのような中で、幼稚園の設立が起こったのか、教育の原点を知ってほしいという事につきます。

 教育の歴史では、習うのですが、そもそも学校や保育園は、どこで始まったかです。その答えは、教会からというのがあります。初代教会以来、修道院が子どもの教育を担当し、宗教改革のルター以後は教会が、もともとは信仰教育をきちんとしたいと学校が始まったようです。近代になり産業革命になると子どもが労働者として使われるようになり、子どもの環境や人権状態が極端に悪くなりました。教会は、イエス様の教えを受けて、保育園、学校を教会に増設して行きました。

 そして、近代教育の理念といえば、なんと言ってもルソーです。ルソーはキリスト信仰を持っていたのかは、賛否分かれます。しかし、ルソーはちゃんと宗教教育の大切さを書いています。

 右も左も分からんと言うのがあるかもしれません。しかし、神の存在は人間の存在と同様に明白という捉え方もあります。どうか、よい礼拝体験をと祈ります。   ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年11月3日(日) 

「疲れた者、重荷を負うている者は、誰でも私のもとに来なさい」マタイ伝11章28節

  本日は、召天者記念礼拝が、遠くより近くより集まって頂き、コロナ前のようにできます事、感謝です。

 先週は、10月27日(月)午後9時からNHKの総合で「映像の世紀 バタフライエフェクト 2つの敗戦国ドイツ さまよえるドイツ人」をしておりました。全く見る気もなく流しで聞いていたのです。しかし、ドイツは、第2次大戦前にポーランドやチェコに、ドイツ人が、ナチス・ドイツの前から入植していて、この人々は、1500万人ほどあります。なんとこの人たちが、ナチス・ドイツの敗戦と共に、ポーランド、チェコから追放された話でした。すでにポーランド、チェコ人になっているのですが、それでも追放されます。それがなんと1500万人も上ったそうです。

 これを聞いていて、本当に「さまよえる」です。ユダヤ人600万人を虐殺した報いだと言う説、実はドイツの戦後の復興は、この追放された1500万の人たちが、帰還して担ったと言う説。ドイツには移民を入れてはならないと言う説。完全にこんがらがっていました。日本も同じようなところがありますが、西洋は問題を先鋭化するのが、特徴かもしれません。

  私は聞いていて、ルターのいたドイツの大変さ、そして、イザヤ時代の北イスラエルと南ユダの状況を考えました。いつの時代も、主の民は、主にあって、課題を持ちつつ歩むしかありません。 

       ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年10月27日(日)

「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」マルコ伝11章24節

 先週は踊一郎先生による特別礼拝が無事終わりまして、心から感謝です。多くの方々の準備が報われて、多くの方が来て下さいました。特に新しい方が2名来られたのは、本当に良かったです。

 また、会員の皆様もそれぞれに先生の言葉を受けられたと思います。私は、「40年間、西南学院教会で牧師ができたことは、祈ってくださる方があったからです」に改めてそうだったのかと深く納得しました。西南学院教会の主だったメンバーをまとめて行くのは、大きな賜物がいるなとかねがね思っておりました。先生は、鳥飼教会1年、鹿島教会6年、そして西南学院教会と全部で47年間牧師をされていたのです。

 いつだったか、祈祷会は、AA(匿名断酒会)のダイナミックスの働きがあるとかお話しました。でもまさに、祈祷会は、ある意味で牧師を支える働きがあったのです。「68歳になって、今頃気づいたのか」と言われそうですが、これが現実でした。

 踊先生は、主任牧師を辞めて、福岡地方連合の牧会主事の働きをしておられるそうです。先生の賜物が、大いに用いられるように祈るものです。         ( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

 

10月20日(日)

「私はあなたの為に、信仰が無くならないように祈った」      ルカ伝22章32節

 本日は、踊先生ご夫妻をお招きしての特別礼拝ができることを、心から感謝いたします。コロナの発生以来、特別行事のリフォーム完成礼拝((寺園喜基先生 23年6月18日)を除くと4年ぶりの外部講師による特別礼拝かと思います。正直「待ってました」という感じです。

 コロナ前は、幼稚園の父親参観や母の日礼拝につけて、それこそこの時ばかりは100名に近い特別礼拝が出来ました。あのような礼拝は、もうむずかしいでしょう。しかし、今回がきっかけになってくれることを祈ります。

 先週、遠藤周作の死後25年ぶりに原稿が見つかって出版された『影に対して』を読みました。この小説は、自分の母についての本です。遠藤周作の諸作品は、まさに「母によって、母に向かって、母の為に」書かれたのだと改めて知りました。真理の音を求めたバイオリン弾きで、その為に離婚され、しかし、それでも周作を愛して、信仰に導いた母は、イエス様の影法師のようでした。弱くて棄教し、しかし、それでもイエス様に縋り付いて、信じていく信仰を示されます。

               ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年10月13日(日) 

「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」  ローマ書9章2節

 先週の10月7日は、ガザにイスラエルが侵攻してから1年目でありました。ガザは今、本来はパレスチナですが、周りをイスラエル兵に取り囲まれた状態です。1年前に1200名のイスラエル人が、イスラム組織ハマスによって、人質を含めて捕らえられ、殺され、これに対抗して、イスラエルは今迄、41,000人のパレスチナ人を殺しています。戦闘は、収束どころか拡大する一方です。レバノンやイランとも戦闘が始まる状態です。

 私たちにとっては、なんと言っても聖書のその場所であり、ガザやアシュケロンは、まさに旧約ヘブライ聖書の士師記サムソンの活躍の場です。ここはまさに聖書のイスラエルのその地です。

 ところで、キリスト者のSNSを見ていますと、今のイスラエルと聖書のイスラエルは関係ないという主張が多いです。確かに今のガザに侵攻するイスラエルと聖書のイスラエルは関係ないといわれると少し安心です。しかし、そうなのか。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです」(ローマ書9章4節)とパウロは書きました。土地取得の約束はさておき、聖書のイスラエルと今イスラエルは信仰的に関係ないとは、とても言えません。パウロと同じで、イスラエルが、神に立ち返るようにひたすら祈るしかありません。聖書のイスラエルと今のイスラエルは関係ない、と言ったとたんに信仰は空洞化します。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年10月6日(日)

「いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会に席に着く。」

マタイ伝8章11節

 早いもので今日から10月の最初礼拝となりました。あっという間に下半期の始まりです。今年の下半期は、台所の建設あり、10月と11月には外部の先生による特別礼拝があります。下半期も忙しい教会活動になりそうです。

 教会の務めは、よく言われるように「福音を語ること」と「この世に奉仕すること」の2つにまとめられます。福音宣教のみでも、世への奉仕のみでも足りません。幸い当教会は先達が、幼稚園を置いてくださり、今は児童クラブもあり、この世の奉仕に邁進しています。そして、み言葉の宣教は、特別礼拝が2回続きます。そして、クリスマスを迎えます。シャロームホール建設もあり、2024年度の下半期も悔いなく進むことを示されます。

 隣の奥田産婦人科医院が、とうとう解体されます。お知らせでは、解体工事は10月31日迄ですが、少し長引くらしいです。土地を幼稚園で買いたかったですが、力足らずでした。お金を持っている方があるものです。マンションあたりになるのでしょうが、どうなるか分かりません。日曜日は、工事はしないそうですが、気をつけて工事中の前を通ってください。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年9月29日(日) 

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」 イザヤ2章4節

 先週は南九州連合の伝道部と社会部共催の研修会が東熊本教会でありました。講師はバプテスト連盟の元インドネシア宣教師の木村公一先生でした。先生は、17年間のインドネシアの宣教師の後、博多の糸島郡で、福岡国際キリスト教会の糸島集会所の牧師をされています。テーマは「平和をつり出す教会」でした。先生のインドネシアの宣教師の体験、ウクライナの訪問体験、そして、ガザの体験と宣教師ならではの視点を語ってくださいました。

 1つはロシアですが、ロシアがウクライナに侵攻したのは、ナポレオンに攻められ、次にヒトラーに攻められ、今NATOが東に進出してロシアは、西側が怖くてたまらないのだそうです。目から鱗です。2つはイスラエルのガザ制圧です。実は今のネタニアフ政権は、全く旧約聖書を神のことばとしていないそうです。シオニズムのユダヤ人は、土地だけが神だそうです。信じられない証言です。

 3つに、日本の憲法の改悪運動ですが、法理的には、9条の「平和主義」、第11条と第97条の「基本的人権」の条項は「永久に」と言うことばによって、改変禁止条項に入るらしいです。だから9条の追加条項案が出ているのだそうです。

なんと私は知らない事ばかり。これでは、平和を造り出すには、程遠いです。まず現実を知り、祈りつつ、学びつつを又示されました。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年9月15日(日) 

「倒れた。大バビロンが倒れた」 ヨハネ黙示録18章2節

 先週は、交易で栄えたバビロン(ローマ)が滅びるという黙示録の聖書を取り上げました。ところで、私の所は、もう雅子姉との2人暮らしで、5キロのお米を買うと1ケ月ほど保ちます。とうとうそれが切れてきて、鴨池イオンも閉まって、騎射場のタイヨーに買いに行きました。なんと全くお米がありません。思い出したのは、1994年の冷夏でお米が無くなった時の体験です。まさか、又お米がないのかとびっくりです。あの時はタイ米がでて、毎日カレーと焼飯で食べました。

 ある方が「先生、中山夕礼拝に行くのだから、中山に大きなタイヨーがあるのできっとありますよ」と言われます。夕拝を済ませて行くとなんとやはり5キロのお米はありませんでした。店員さんが「朝来ればありますよ」と言われます。まさか中山まで朝買いに行くこともできないし。幸い2キロの加工米が1個残っていて、これを買いました。10日間はもつでしょう。また新米が出てくるでしょう。

 それにしても、自給率100%のお米がなくなるとは、大変なこともあるものです。台風の関係もあるそうです。長老ヨハネは、神に敵対するローマは滅びると予言しましたが、意外に本当にやってくるのかもしれません。( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

2024年9月8日(日)

「キリストの内にいると認められるためです。」      フィリピ3章9節

 先週は、NHKラジオの宗教の時間で、今年の4月に95歳で召天された元鎌倉雪の下教会牧師の加藤常昭先生が、インタビューの形で「説教者として生きる」というテーマで、お話されていました。

 考えさせられたのは、加藤先生ご自身の説教体験でありました。敗戦を迎えるまでの先生の救われた教会の説教は、真に迫るものがあったそうです。そこで信仰を得たそうです。しかし、敗戦を迎えてからの説教は、実は、救われた教会の先生の奥さんは、アメリカ人で自他ともに迫害されていました。しかし、敗戦を迎えると教会の状況は一変します。先生はその得意な英語の力を買われて、引く手数多の仕事が舞い込みました。とうとう、先生の説教は聞かれたものでなくなったそうです。つまり、説教に時間が裂けなくなられたのです。加藤先生は、この教会を去り、離れざるを得なかった、と言われました。

 実は、戦争当時は、最後の混乱の1年間を除いて、教会の洗礼・バプテスマ者は多かったと言われます。すべての若い人が自分の戦争での死を目の前にしていたからでしょう、と言われます。今はもちろん状況が違います。しかし、教会は神の言葉を聞いていく、と言う姿勢を無くしたら、そこで低迷するのだと思いました。                 ( 田渕 亮 牧 師) 

 

2024年9月1日(日)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる」  詩篇55編23節

 先週は、加治屋町教会での心の友伝道研修会の全国大会に夫婦で出てきました。全国大会であったのですが、70名の参加でした。夕べの交わりの賛美の時間は、なんと伊集院におられた麦野達一先生が、加恵姉と共に奉仕されていました。5年ぶりに会えて感謝でした。

 通常の講演等のプログラムも良かったのですが、私たちの直ぐ後ろに席におられる3年前に加治屋町教会に転入された信徒の方が声をかけらます。休憩の時間に「先生、私は、3回復活させられて、神様の存在を疑いえないのです」と言われます。驚きました。

 「先生、1回目は5歳の時、大腸の大きな病気になって、大阪大学医学部だけがこの病気を手術できるお医者さんでした」(たまたま大阪におられた)。2つ目は「私の同級生の男の子は、すべて特攻志願で亡くなりました。私が男でしたらここにいないでしょう」。3つ目は「2年前に心臓の複雑な病気になって、なんと熊本の済生会病院ともう一つの大学しか、この手術ができなかったのです」。「先生、全部、神様に救われました。女学校で英語を学ぶために、教会に行って救われた94歳の私の信仰は、おかしいかな」とかくしゃくと言われるのです。

 「これほどの信仰をみたことがない」(マタイ8章10節)としか言いようがなかったです。人生を振り返り、神様がおられるとしか言いようがない方もあるようです。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年8月25日(日)

「あなた方が彼らに食べ物を食べものを与えなさい」マルコ伝6章37節

 先週は、無事に臨時総会が終わり、リフォームの2期工事、主に台所の建築が、付帯工事と共に決議されて感謝でした。コロナ感染もあって、台所はもう教会にいらないのでないかと本当に一時期思いました。しかし、台所の無い教会は見たことがありません。遠くから近くからリフォーム会堂を見に来られる方々は口々に「あれ、台所はどうされました」と言われるのです。お茶を濁した返事をしましたが、多くの方が「教会には台所が絶対必要ですよ」と言われる方が多かったです。確かに、借りた会堂の教会でも、必ず台所付きで借りておられます。

 よく考えて見れば、福音書のイエス様は弟子たちと又民衆と共に、食べてばかりです。ざっと調べてみると一番短いマルコ伝でも20回も、イエス様は食べることをなさり、又語っておられました。つまり主の福音は食べることと共にある、というとオーバーですが、共に食べることは、福音の根本を形成するのです。

 振り返って、こんな飽食の日本で、相対的貧困の子ども達は、朝ごはんを食べていませんというか、今は食べられないのです。議案説明にあったように、前よりは小さくなりますが、今度作られる教会台所が大いに用いられることを祈ります。( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

 

2024年8月11日(日) 

「イエスは…大勢の人たちを癒し、・・多くの悪霊を追い出した」マルコ伝1章33節

 本日はコロナも明けて、数年ぶりに交換講壇ができることを感謝です。希望キリスト教会の松本貢先生が、来てくださいました。先生は、2008年から鹿児島で新規伝道をなさっています。聖霊に満たされ、本当に素晴らしいことだと思います。宣教の中でご自身の証をされると思いますので、詳しいことはここの巻頭言では、省略します。

 すでに簡単プロフィールを書いていますので、そこにないことを書いておきます。先生とはキリスト協力会(地区の牧師会)にもいつも一緒に参加しております。そして、食料デーの委員会でも事務局として、働いて下さっています。先生が食料デーの委員になられた時の言葉を覚えています。

 「先生たちが、一生懸命されているので、私も少しは手伝わないといけないと思いました」と言われて参加してくださったのです。伝道とは直接関係ない仕事をするのは、牧師としては本当に疲れることがあります。しかし、神様から「この奉仕はしなさい」と言われることがあります。直接伝道にならなくても、そこから示され、導かれる見えない伝道があるのです。イエス様も又み言葉の宣教のみでなくて、病をいやされ、悪霊を追い出されたのです。( 田渕 亮 牧 師 )

 

 2024年8月4日(日)

「収穫の主に、働き手を送ってもらえるように、祈りなさい。」マタイ伝9章38節

 先週は、無事に南九州地方連合のバプテスト大会が当教会で行われました。70人弱の方が集ってくださり、九州バプテスト神学校の松見俊先生の講演を聞きました。皆様の暑い中のご奉仕を感謝でした。テーマは「礼拝と交わりの回復」でした。コロナが終わってからの礼拝の回復をテーマにして頂きました。内容は先生の救われたことや牧師時代の証があり、基本的には、一人一人の救いを基礎にして、一人一人に伝え、礼拝することだ、と受けました。

 各会の時間は、私は壮年会にいました。バプテストでは、牧師は必要なのか、礼拝とは何であるのか、が問われていました。これだけ牧師が少なくなるともう信徒宣教で持ちこたえるしかないという意見、信徒説教やCD説教の礼拝は、それは本来の礼拝であるのか、と言った協議でした。議論は白熱して、最後は何がテーマになっているかという感じでした。少し雑なところもありましたが、非常に現実的な問題でした。神様に「働き手を送って頂くように祈りなさい」を思い出しました。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年7月28日(日)

「生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」

ガラテア書2章20節

 先週のNHKラジオの宗教の時間は、大貫隆先生でした。懐かしい名前です。西南神学部の時に新約聖書特講をとりました。先生は、東京大学の西洋古典学の先生で、ヨハネ福音書とグノーシス研究の権威です。

インタビュー者が「先生は、なぜ、キリスト者になったのか。なぜ復活を信じることができたのか」と問われました。すると1つの体験を言われたのです。それは、大貫先生の姪っ子が、14年間の引きこもりになりました。とうとう姪っ子を一番かわいがっていた大貫先生のお母さんが亡くなりました。遺骨は、実家のその姪っ子の家にも運ばれました。なんと骨となったお母さんの骨壺が実家に来ると、その姪っ子は、14年間の布団の中からガバッと起きたのです。そして、1日中骨壺の前に座り、なんとその時から引きこもりが解かれ、実家の大黒柱になられたのです。

 大貫先生は、それを見て復活を信じたのです、と言われました。姪の心に、死んだ先生の母が「起きろ」と復活したのです、と言われます。先生は、授業の時に、真理に前に本当に謙遜でした。今、又先生のヨハネ福音書の授業を思い出しています。(田渕 亮 牧師)

 

2024年7月21日(日)

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。」          第1ペテロ5章7節

 先月の6月のNHKの「100de名著」は、宮本常一(1907生)著『忘れられた日本人』をしていました。知る人ぞ知る日本民族学会の柳田国男(32歳上です)を引き継ぐ民族学者です。今、1万円札で有名になっている渋沢敬三にその能力を見出され、全くのお百姓さんから教員となり、そして57歳で武蔵野美術大学の教授になられました。

 その手法は、ただひたすらに日本中を歩き回って翁たちの話を聞くと言う徹底したフィールドワークの方法です。読めば読むほど、お金はなくても、力はなくても、戦前の日本人が、力の限り知恵を働かせて、生きていたことが伝わってきます。宮本の時代は、階級闘争が社会分析の手法でした。しかし、宮本は自分が山口の周防大島の出身であるために、百姓の知恵と工夫を知っており、階級闘争だけでは、日本社会は分からないという立場でした。

 読んでいますとイエス様は出てこないのですが、名も無き小さい人から日本を見る観点が伝わってきます。第4章の「子供もさがす」では、子どもの失踪を村中で探す模様があります。読んでいるとこの村の人たちは全員キリスト者かと思います。( 田渕 亮 牧 師 )  

 

2024年7月14日(日)

神はモーセに『私は、有ってある者である』と言われた。」(口語訳聖書) 出エジプト記3章14節

 先週は、鹿児島県知事選挙がありました。なんと投票率は、44.7%だったそうです。すごいです。有権者の半分以上が投票されませんでした。これは、選ばれたことになるのかです。選ばれた方も選ばれなかった方も、これでは単純に「万歳、万歳」をされたかもですが、どうだったのでしょうか。正直、鹿児島県もここまで落ちるのかと思いました。鹿児島県は現代日本、明治維新を山口県と高知県の方と共になした県ではありませんか。ここまで政治を支える投票意識が落ちるものでしょうか。期日前投票はかなり緩和されて、正直誰でもできるようになっています。 

 しかし、そうかもしれません。それは、地区の牧師会に行っても、教会がなかなか振るわないのです。ある社会学では、教会は社会を写す鏡になっていると言われます。教会が振るわないとは、実はその社会が力をなくしているとも言われます。献金する力、社会奉仕をする力、祈る力が衰退していると言えるのです。これは老齢化だけでないのです。社会を支える意識と信仰、決断が弱くなっているとも言えるのです。根は深いです。しかし、この時こそ、全能の主の導きとキリストの取り計らいを信じるのみです。自分への主の召命を確認して歩みます。    ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年7月7日(日)

「み言葉延べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」第2テモテの手紙 4章2節

 先週は、ズームの教会形成コーチングセミナーの2回目がありました。通信が不安定で、全部参加できなかったのです。しかし、証の部は、よく聞き取れました。証の部は、今年になって香港の教会を訪問された先生夫妻の証でした。

香港は先に報道されているように、中国に完全に返還されましたが、転覆罪の法律が改正されて、信仰の自由はなかなか難しくなっています。一応建前は、1国2制度で政治が行われていることになっています。しかし、こういうのは教会が、一番その政治の真価が分かるものです。確かに市場は盛況で、先生方もお土産を自由に買えたそうです。香港のスラム街と言われるところも、自由に行けたそうです。しかし、礼拝はできますが、教会を新しく作ることはできないそうです。

 香港の教会は、今までの既成の教会を守るしかないようです。では伝道はどうするのか。教会建物を作ることができないので、セルグループの方式で、一般家庭がセル(教会の細胞)となって、外からは見えない新しい礼拝をするそうです。

聞いていて、これは初代教会のカタコンベ(地下墓場)教会だなと思いました。しかし、どこのキリスト者も政治の目をくぐり抜けて、力一杯イエス様の伝道・宣教されています。私たちは自由にできる伝道を感謝し、香港教会の為に祈るのみです。( 田渕 亮 牧師 )

 

2024年6月30日(日)

「『私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」 ルカ伝17章10節

 先週は、地区牧師会の先生より、教会形成コーチングセミナーというズームの研修会に誘われました。「7つの本質」と言われる聖書を7つの要素にまとめて、教会形成を導くものです。講演が終わって、各班にわかれて、ミ―ティングでした。その中で、教会形成に直接関係ないかもですが、私の参加する班では、2つのことがテーマになりました。

 1つは、ある世界的な教会指導者(バプテストではない)が、スキャンダルで失脚されたことでした。もう一つは、日本のある有名な教会(バプテストでない)が最近分裂されたことでした。教会形成と正反対でしたが、考えさせられます。

 実はたまたま私の班には、天草の南 圭生牧師がおられて、先生はルカ伝17章10節を引用されて、「牧師は『しなければならないことをしただけです』の気持ちを忘れたらおしまいですね」と言われました。先生の的確な判断に感謝でした。「誇る心(高慢)は、倒れに先だつ」(箴言16章6節<口語訳>)です。謙遜に生きる力を祈らされます。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年6月22日(日)

「どうして私が、この大いなる都ニネベを、惜しまずにいられるだろうか」ヨナ書4章11節

 先日の鹿児島ブロック女性修養会では、私が講演を頼まれました。せっかくですので梗概をここに書いておきます。今どきの講演ですので、やはりパレスチナの戦争についてキリスト者はどう捉えたらいいのかで講演しました。テーマは「隣人を自分のように愛する」でした。

 幸い斎藤さんから現在87歳で、エルサレム聖公会の司祭アティークさんが『サビールの祈り』(サビールとはアラビア語の「道」と言う意味)を教文館から出版されているのを、紹介してもらいました。これはナクバ(1948年のパレスチナ人追放)から現在迄のパレスチナの歴史を詳しく書いています。

 戦争に至る歴史のこと、その背景といろいろあります。しかし、私は、旧約ヘブライ聖書のイスラエルへの土地約束を、どう捉えるかが中心と思いました。結論だけ言うと民数記、申命記、ヨシュア記のイスラエルへの土地約束は、そのままキリスト者は読むことはできないということです。キリストを通して、キリストの十字架を通して、受けることになるということです。特にその時、予言者ヨナの示す排他信仰でなくて、包括信仰で行くしかないということでした。

改めて、知っているようで理解していないなと準備しながら示されたことでした。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

2024年6月16日(日)

「私は大地に飢えを送る。…主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」アモス書8章11節

 先週は、誘われて博多の那賀川教会の藤 牧師さんが主催されている『聖書教育」の「楽集会」に出てみました。月に一度行われるこのズームの楽集会は、『聖書教育』誌の次の1ケ月分を参加者が協議するものです。教会学校の先生にとっては、分級の事前準備となります。私はてっきり多くの信徒の方が、特に教会学校の校長先生方が、熱い議論で「どうやったら子どもたちに、この聖書は理解されるか」を、盛んに協議されているのだとばかり、思っておりました。いつか参加して議論を聞きたいものだと先週は、とうとう時間がとれて参加しました。

 なんと参加者6名でした。信徒の方の参加は2名です。後は牧師です。牧師参加が悪いわけではないですが、ここまで教会学校が低調になっているとは驚きでした。「子どもたちに聖書を伝えたい」という言葉は、もう死語になったようです。人のことはともかく鹿児島教会はどうかと言われそうです。

 バプテスト教会の低迷が、分かる気がします。南九州連合からの参加は那覇と鹿児島のみです。「子どもに聖書を教えたい、聖書を聞きたい」という思いが、ここまで低くなったのかと祈らざるを得ませんでした。しかし、この現実から出発するしかありません。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年6月9日(日)

「第2もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」マタイ伝22章39節

 先週は、フランクルのホロコースト(600万人の大虐殺)からの脱出を書きました。バランスを取るためには、パレスチナ人の1948年のナクバ(大惨事<アラビア語>)を書いておきます。ご存じの通りイギリスの3枚舌によって、国連はパレスチナにユダヤ人の国家の成立を認めてしまいました。

 今のイスラエル(パレスチナの地)には、すでにパレスチナ人が住んでおりました。なんとイスラエルは、このパレスチナ人を追い出して、国家を作り始めました。「またすぐに戻れる」と騙されて土地を離れた人もいました。しかし、決して戻れることはありませんでした。1948年からイスラエルは、2年間をかけて、パレスチナ人を追い出しましました。ユダ人のホロコーストと同じで、突然イスラエル兵がやってきて、立ち退きを命じたのです。その数は70~75万人とされます。このナクバ(大惨事)で自分の土地を追放された人々が、今のガザ周辺の人々です。宗教的にはイスラム教だけでなく、パレスチナ人キリスト者も非常に多いのです。

 歴史は教えます。人間は自分がされたように、又自分より弱い者にそれをするのです。これが原罪の根底です。イエス様はここからの解放を教えてくださったのです。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年6月2日(日)

「箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、…川上から流れる水は、…壁のように立った」ヨシュア記3章15,16節

 この前、NHK心の時代のテキストで『ビクトール・フランクル』(『夜と霧』の作者)の本を買ってきたことを書きました。本題ではないのですが、フランクルは、なぜ父、母、妻がガス室に送られた中で、アウシュビッツから生還できたのかがあります。4つの出来事が書いてあります。①たまたま相談にのった親衛隊の監視人がガス室の選別所にいて助けてくれた事。②収容所の選別の時に、間違えて違ったところに並び、それでそのまま助かった事。③発疹チフスに罹患して、ガス室送りの列に並べなかった事、④死の行進(収容所を変わる時に徒歩で140キロを2週間で歩かせる行進)に病気で選別されなかった事、です。つまり4つの奇跡が重なったのです。

 これらのことを、フランクルはすべて偶然であったとしています。そして、フランクルは当然、この出来事を、聖書の主なる神様のみ手と受けるしかないとしています。人生には、このような分岐点があり、それをフランクルは「究極の意味」として超越した何者かが、寄り添ってくれていたと受けるしかないとします。信仰とは何か、こういうことを受けることがあります。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年5月26日(日)

「神は、私たちに対する愛を示されました。」 ローマ書5章8節

 NHKの『3か月でマスターする世界史』5月号を読んでいましたら、自分たちが高校で習った世界史とはだいぶ違って、「モンゴル帝国が変えた社会」がテーマになっています。自分たち(60歳代後半)の時に習った世界史は、モンゴル帝国はせいぜい元寇くらいで、モンゴル帝国が世界史に何か影響したとは全く知りませんでした。

 しかし、この本によるとモンゴル帝国によって、本当の世界帝国はその姿を完成したそうです。それは、世界紙幣を流通させ、一時期にせよ、世界経済なるものを打ち立てた国で、東西を本当に統一させたのだそうです。

プロテスタント・キリスト教が成立した根底に、ルネサンスがあります。モンゴル帝国が、ルネサンスを触発したとあります。このモンゴル帝国の瓦解の原因は、なんと世界の寒冷化と疫病のペストとなっています。そういえば、カトリック教会の衰退の原因にも、疫病のペスト説があります。神様は思いもつかない方法で、世界を導いておられます。

つくづく混乱を超えて、十字架の愛に生きることを知らされます。主をしっかりと伝え、祈るのみです。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年5月19日(日)

「隣人を自分のように愛しなさい」     マタイ伝22章39節

 先日イオンの2階の本屋さんに寄って、店員さんと話していたら、NHKの文化講座の本がすぐ売り切れるそうです。実は、水曜日の『3か月でマスターする世界史』をたまたま見ましたら、キリスト教を上手に説明しておりました。これはいい本だと1300円とちょっと高いのですが、買いに行くと「売り切れました」とのことです。「最近のNHKのはこう言うのが多いです。すぐに取り寄せます」とこのことでした。

 隣に「NHK こころの時代」のテキスト『フランクル』がありましたので、これで代用しました。飛ばし読みしますとフランクルは、あの有名な『夜と霧』よりも、ロゴセラピーの提案者として大切だとあります。アウシュビッツはロゴセラピーの実践の場になったのだとの事でした。

全く生きている意味が無くなった時、なお生きていく意味をどうやって掴むことができるか。フランクルは、自分をアウシュビッツの実験台として用いたそうなのです。

 フランクルは、晩年にユダヤ人からも嫌われたそうです。ドイツ擁護の言論があったからだそうです。しかし、フランクルは、良いものはいい、悪いものは悪い、と生きたようです。ユダヤ人でありつつ、ユダヤを批判していく。これはイエス様にも通じます。                

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年5月12日(日)

「兄弟達、すべて信じるのこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、・・それに心を留めなさい」    フィリピ4章8節 

 大型連休が終わりました。久しぶりにご親戚にあった方、ほとんど移動されなかった方とあったかと思います。移動された時に、お墓参り等があると思いますが、お墓の前で祈られる方、何もしない方、形だけ整える方とあるかと思います。先日、第2ラジオのカルチャーラジオで、「キリスト教徒と他宗教」をしておりました。

 山本芳久先生(トマス・アキナスの研究者)によると宗教同士の出会いの型は、対決、包摂、多元主義の3つだそうです。たとえば、対決主義は仏教には何も真理なしとします。包摂主義は、仏教の言うことは、すべてイエス様が言っているとします。多元主義は、すべて宗教は正しいと受けます。しかし、多元主義で「愛だけが正しいのです」と言われても、人はそれを信じ実践するものとなるのか。イエス様の十字架と復活があるから、神の子の私のための血を流す苦しみがあるから、私たちはそれを受けて信じ、実践していくのでないのか。それぞれに、特有の真理をもっているのです。簡単にごちゃまぜにされても、それを実践し又信じることになりません。

今信じている事、今イエス様に示されている十字架に、歩むのみです。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年5月5日(日)

「主よ、あなたは代々に、私たちの宿るところ。」        詩編90編1節

 連休真中の主日礼拝となりました。休みが続くので、父母がまだいる時は、数年間は、私は長崎帰省をしておりました。しかし、ある時人吉から八代間の高速の大渋滞に出くわして、なんと長崎まで8時間かかったことがありました。朝の8時に鹿児島を出発して、午後5時に着いたのです。

 この時以来、二度と連休は遠出をしないことにしました。高速道路の道端に用を足したのも初めてであり、たまたまおにぎりを持っていたので、なんとかなりました。それにしてもすごい渋滞でした。皆さん車から出て、高速道路に出て遊ばれていました。あの頃は、荒尾の三井グリーランドが再建され超人気だったようです。

 今は、普段していない洗濯や手つかずの片付け、ゆっくり休むがせいぜいです。しかし、それもまた楽しいものです。連休も明日で終わります。どうか、最後まで交通事故には気を付けてください。地震の避難者の方を覚えつつ、主の守りを祈ります。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年4月28日(日)

「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」                第一テモテ書5章8節

 先週と先々週は教会執事、役員、教会学校、認定子ども園、児童クラブの任命式をすることができて感謝です。先週は幼稚園からは1回目に来られなかった方が多く来てくださいました。児童クラブは、ほとんど方が家族の介護があって、来られませんでした。次の日に揃われて、任命の祈りに行きました。

今回改めて、若い方はともかく、多くの方が、ご自身の親の介護の務めが非常に重くあることを知らされました。ある方は、毎週、主日に親の所に高速道路を使って帰っておられるとの事です。本当に大変です。

改めて介護すること、また介護の認定を受ける事の大切なことを知らされます。自分の時は、弟がよくしてくれて、自分はほとんど何もなすことが無かった事を思い出します。両方の親の介護を終わって、これを聞いておきたかった、あれをしておきたかったは、当然かもしれません。今度は自分がそうなる番です。しかし、最後まで自分の力で生きたいと思いますが、親を見ているとどこまでできるのか、があります。

 最後は、お世話になるしかないので、本当に主の恵みによって生きるのみです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年4月21日(日)

「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。」    フィリピ1章27節

 本日は、先週のめぐみ幼稚園の保育教諭、給食、総務の方の任命に引き続き、児童クラブの方々の任命式となります。本来できるだけ早く、年度の初めにした方がいいのですが、人数が多く3週目となりました。

新しい年度になって、それぞれの働きをすでになさっていると思います。今年も昨年と変わらず、同じことの繰り返しか、という事があるのだと思います。ところでNHKの『100分de名著』の4月号は、フロイトの『夢判断』をしています。フロイトの精神分析は、今の精神医学では、もう手法が違うそうです。しかし、いわゆる精神医学、精神分析の基礎を築いた方です。しかし、フロイトは全く学究の方でなく、完全なウイーンの一介の町医者だったそうです。しかし、神経症の患者さんが集まり、43歳の時、自分の患者さんの病気のしくみのことを、発表(『夢判断』出版)します。これが多くの人々の目に留まり、精神分析の学問の始まりとなったそうです。

 つまり、フロイトは一界の町医者として懸命に患者さんを診て治療し、これが精神科の始まりになりました。日々の積み重ねの力を示される事です。       ( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

2024年4月14日(日)

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。」マタイ伝7章7節 

 本日は、教会の奉仕をされる執事さん、また役員さんそして、幼稚園の務めを担ってくださる保育教諭の任命式です。すでに辞令式を終えておられます。なんでまた任命式が必要かとなります。それは、幼稚園にしても教会にしても、その働きが人間の力では手に負えないからだと思います。下手に、自分の力でなしてしまうと「なぜ、こんなに一生懸命しているのに、誰も褒めてくれない」また「何にも報いがないじゃない」となります。

 とうとう不平不満となり、本来の務めが果たせません。任命とは人間の働きのようでいて、実は神様からの任命だと言うことです。これは大切です。それはもし本当に神様からの任命とすれば、それは大失敗しても、おかしなことになっても、全能の主がそこに任命されたのです。最終責任をとって下さるのは神さま・イエス様となります。この絶対の安心が教育や教会には必要なのです。

 主がここにおいて下さっている。この信仰の受け取りは、その人の賜物が十分発揮されるためには、どうしても通るべき基盤です。祈って備えます。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

2024年4月7日(日)

「御心が行われますように」             マタイ伝6章10節 

 本日は、2024年度の最初の礼拝となりました。いつものように、2024年度の年間聖句から聞きたいと思います。昨年は、イースターが年度の初めにあって、少し遅れて年度の聖句から聞きました。

 今年度は、「主の祈りを生きる」として、いつも祈っている主の祈りを、1年間の念頭に置きたいと示されます。というのは、昨年はいろいろなことがありました。会堂リフォームが無事済みました。しかし、まだ完成と行かず、また個人的には色々なことが起こりました。正直何をどうしたらいいのか、前が見えませんでした。するといつも祈っている主の祈りが突然、心に示されます。「御心を求め、必要な糧を求め、罪を告白し、罪を赦し、誘惑を避けて、前進せよ」と響いたのです。「何だ、そうだった、そうだった」と主の祈りの力に驚きました。

 イエス様の主の祈りは、キリスト教の祈りの規範でなくて、苦難の時の祈りだったのです。この1年間いつものように、主の祈りを覚えて歩みます。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年3月31日(日)

「イエスは必ず死者の中から復活される」           ヨハネ伝20章9節 

  本日は、イースター(復活礼拝)を感謝です。主は死人の中より復活されました。何度聞いても、すごい使信です。先週は、無事に定期総会を終わり、感謝です。4つの議案がそれぞれ可決されました。24年度の歩みが主にあって祝され、守られ、導かれるようにただただ祈ります。また、今年は、イースターが年度最後の主日というのも、すごい巡りあわせです。主のご復活の力を受けて、24年度をスタートしなさいと言うことなどだと思います。

 23年度の歩みは、すでに報告されたようにバプテスマがありませんでした。しかし、転入が与えられました。その年その年で、それぞれの歩みがあるのだと思います。次年度の歩みは、久しぶりの新しい執事さんが2名入ってくださいます。それぞれすでに歩みをお持ちの方ですが、これも感謝です。

 復活の力を受けて歩むと言うことは、何か狂信的な、精力的な働きになるということではないでしょう。神の言葉に自分を照らして、聖霊の力によって歩むと言うことです。現実をよく見て、しかし、信仰の幻をもって、前進することであります。主のご復活を身に受けて、新しい年度をしっかりと歩みます。( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

2024年3月24日(日)

「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住む者は、主のもの」    詩編24編1節

  先週は、子ども園 めぐみ幼稚園の第72回卒園式がありました。無事終わって感謝です。いつも書いている通りですが、9年前に子ども園になって保育部から預かります。従って、一番長い子は、なんと6年間もめぐみ幼稚園に通って、卒園する子がいるのです。また、1人のお父さんが「3人の子をめぐみに預けて、9年間でした。私も一緒にめぐみを卒業します」と挨拶されていました。

こんなに長く園に関わってくださっていたのかと驚くばかりでした。このお父さんは、少なくとも4年前は、家族の日礼拝におられたので、礼拝に関わってくださっています。多分、キリスト教への言われない毛嫌いは、なされないと思います。それぞれに、理由があってめぐみを選んでおられますが、改めて大きな働きを思います。

富士山のように大きな山は、裾野が広いです。改めて、教会が立っていく裾野を思います。すぐにキリスト者にはなられないでしょうが、長い目で見るとやはり働きは大きいと言わざるを得ません。受難週を迎えに卒園式に当たり、祈る事です。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

2024年3月17日(日)

「神は言われた『光あれ。』こうして、光があった。」       創世記1章3節

 先週は、日曜夜のカルチャーラジオで、佐治 晴夫<さじ はるお>(北海道 美宇(みそら)天文台台長)の講演をしていました。92歳の理論物理学者の先生です。テーマは「命について」でした。何を話されるのかと興味津々でしたが、なんと「全宇宙、全世界、全人類は、一つの光からできたのです」と言われます。一瞬ドキッとして、この方はクリスチャンかと思いました。しかし、どうも、クリスチャンではなさそうです。創世記1章3節「光あれ」は、宇宙の始まり(ビックバン)と固く信じ、というか物理学でも正しいと言われるのです。

それからの展開が愉快です。「宇宙、人類は、最初は1つだった。だから本当は、137億年前は皆一緒だったのです。皆さん全人類は、全員親戚です」と言った調子です。つまり戦争で憎しみ合い、殺し合うのは、やはり間違っていると言われるのです。相手は違った人でなくて、物理学的には、同根・同質であり、1から始まったと言われます。

こんな平和論は初めて聞いたような気がして、愉快でした。全人類、全宇宙が1から出て来た。異質でないとされるのです。つまり最後まで話し合えば、1つになる余地がある。なぜなら、最初は1から始まったからです。

理論物理学の先生が、聖書の創造論を物理学から受けられ、平和論を語られるのは、とても不思議な講演でした。                    ( ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年3月10日(日)

「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」        第2コリント12章9節

 先週は、カトリックの若松英輔さんの本に触発されて、『生きがいについて』神谷美恵子著を中古本で頼んでみました。なんと3日で来ました。さっそく読んでみました。神谷さんは、ハンセン氏病の長島愛生園で精神医局として勤務して、その患者さん達の調査をされていました。その時、同じ境遇にあるのに、すっかり絶望して生きる力をなくした人とこんなに酷い状況であるのに、希望をもって生きている人に出会います。この違いは何であるのかが、この『生きがいについて』の著作の始まりだったと書いています。

 しかし、神谷さんはなかなか患者さんに受け入れられません。しかし、時が来ました。それは神谷さんが子宮がんとなり、ご自身がうつ病を発症された時でした。なんというお医者さんでしょうか。

神谷さんは、バプテスマは受けられませんでしたが、内村鑑三の高弟としての父を持ち、結婚され2人の子どもを与えられ、延々と長島愛生園の医局を、狭心症で死ぬまで勤められたのです。イエス様の信仰の系譜の深さを、思わざるを得ません。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年2月26日(日)

「わたしから聞いたことを、他の人々にも教えることのできる忠実な人たちに委ねなさい」

第2テモテの手紙2章2節

 先週は、地区牧師会のお付き合いで、超教派のコーチングセミナーというズームによる新しい教会形成のセミナーに出ておりました。時々ここに書いていますが、教会は牧師だけが牧会するのでなくて、信徒全員が祭司として、伝道者として歩む教会形成の模索です。

 もともとバプテストは、ルターの万人祭司を徹底して受け継ぐ伝統があります。ですから、理念としてはよく分かるのです。しかし、では実践されているのかとなると「規則にあるが、実際は知らなかったとか、していない」というようなところがあります。

 改めて、教会が万人祭司に取り組み、聖書の語り、伝道、祈りに進むことです。まずは、祈り会であり、一人一人のアンデレ伝道からです。研修会に出ると最近は、基本を特に示されることが多いです。私が感動したのは、統合失調症の奥様を看病しながら、牧会されている老先生の証でした。神の恵みを、自分に引き付けて聞いてしまうものです。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年2月18日(日)

「主をたたえよ。嘆き祈る私の声を聴いて下さいました。」      詩編28編6節

 先週、木曜日は、当教会出身で、福井教会の牧師、平良憲誠先生夫妻が、教会を訪ねて下さいました。96歳になるホームにあるお母様が、状態が悪いそうです。どうか、祈ってください。

さて、福井教会の復活の話を聞きました。福井教会は、会員の減少により、一度は閉鎖を決意されました。しかし、なかなか閉められずにいたそうです。一人の兄弟が「教会が閉鎖されるまでは」と決議の後も、毎週日曜日にヒムプレイヤーと説教集を抱えて5年間、一人の礼拝を守っておられたそうです。

それを見た金沢教会の田口先生は、平良先生に声をかけられたそうです。すると平良先生は、平尾教会が15年目となり、そろそろと祈っておられて、最後は小さい教会の奉仕を願っておられて、福井教会の赴任を受けられたそうです。たった一人の礼拝は、今は5人ほどとなり、とうとう連盟の地域共同プロジェクト対象教会となり、多くの支援を受けられるところとなりました。改めて一人の信徒の毎週の礼拝と祈りの力を思います。

鹿児島教会は、中山伝道所も閉めることを決意しましたが、主がまた福井とは違ったお取り扱いをしてくださるに違ないと福井教会の出来事を聞いて、強く示されました。( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年2月11日(日)

「主を畏れることは、知恵の初め」   箴言1章7節

 先週はいつものように、中山夕礼拝を終えて、毎週日曜夜の8時からの第2ラジオの「カルチャーラジオ」を聞きながら牧師館に戻りました。今月のカルチャーラジオのテーマは「宗教間の対話と共存」です。講師は、なんと中世のキリスト教神学者トマス・アキナスの研究家、山本芳久(よしひさ)先生でした。カトリックの方です。

先生は、今のパレチナの戦争は、キリスト教とイスラム教の戦いやユダヤ教イスラムの戦いと見るのは、大間違いであると言われます。この見方は、一時流行したハンチントン著の『文明の衝突』を無批判に取り入れ過ぎというのです。宗教間の対立と相互依存は非常に大きく、単純にイスラム教とユダヤ教、又キリスト教が衝突するのでない。むしろ共同して共存してきたと言われます。

簡単に宗教の対立、文明の対立を言うのは、現実を見ないで、戦争に巻き込まれるのみと言われます。むしろ、教えの為に命を粗末にする原理主義と命を大切にする穏健主義、現実寛容主義の戦いです、と言われます。

なんとパレスチナ問題の本質は、不動産問題つまり土地の所有の問題であり、必ず解決しますと言われます。こんな冷静な見方をされる方が、キリスト教の神学者の中にあるのは、喜びと安心と驚きです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年2月4日(日)

「主を畏れることは、知恵の初め」   箴言1章7節

  先週はいつものように、中山夕礼拝を終えて、毎週日曜夜の8時からの第2ラジオの「カルチャーラジオ」を聞きながら牧師館に戻りました。今月のカルチャーラジオのテーマは「宗教間の対話と共存」です。講師は、なんと中世のキリスト教神学者トマス・アキナスの研究家、山本芳久(よしひさ)先生でした。カトリックの方です。

先生は、今のパレチナの戦争は、キリスト教とイスラム教の戦いやユダヤ教イスラムの戦いと見るのは、大間違いであると言われます。この見方は、一時流行したハンチントン著の『文明の衝突』を無批判に取り入れ過ぎというのです。宗教間の対立と相互依存は非常に大きく、単純にイスラム教とユダヤ教、又キリスト教が衝突するのでない。むしろ共同して共存してきたと言われます。

 簡単に宗教の対立、文明の対立を言うのは、現実を見ないで、戦争に巻き込まれるのみと言われます。むしろ、教えの為に命を粗末にする原理主義と命を大切にする穏健主義、現実寛容主義の戦いです、と言われます。

なんとパレスチナ問題の本質は、不動産問題つまり土地の所有の問題であり、必ず解決しますと言われます。こんな冷静な見方をされる方が、キリスト教の神学者の中にあるのは、喜びと安心と驚きです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年1月28日(日)

「あなたたちのもとに寄留する者を…自分自身のように愛しなさい。」  レビ記19章34節

  先週24年1月23日(月)の南日本新聞の第1面に、「(技能)実習生に避妊措置奨励」という記事がありました。ベトナムからくる女性の技能実習生に、避妊リングの処置の手術を奨励とありました。解説では「実習生を労働力だけとみなし、”使い捨て”問題が顕著に表れている」とあります。

 避妊手術と言えば、ハンセン氏病の方への有無を言わせない避妊手術を思い出しました。日本に来られる技能実習生のベトナム人にこんなことをしているのかと、驚きます。

 昔、アメリカに出稼ぎに行った日本人には、こんな話は聞いたことがありません。一応入管庁の幹部も「遺憾の一言」とありましたが、昨年の入管法の制度の改悪には、在留外国人が困っていると言われます。本来なら「日本で生んでください、少子化対策になります」くらいの心意気が必要かと思います。日本の人権感覚が世界からひんしゅくを買わないように、ただただ祈ります。

 (先週の巻頭言で「元旦の地震」と書きましたが、元旦は1月1日の朝の事でした。「元旦の夕べの地震」でした。ここに間違いを訂正します。)         ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年1月21日(日)

「キリストが私たちの罪の為に、聖書に書いてあるとおり死んだこと」第1コリント15章3節

 この巻頭言を書いている16日(火)の時点で、能登半島の地震の死者数は222人、安否不明者数は26人となっています。どうも250人くらいの死者数になるのかもしれません。改めて、すごい地震であります。必要なところに必要な支援が行くことを、ただただ祈ります。

 先週の教会学校礼拝では、鹿大の地球物理学の先生だった根建先生が、能登半島地震の説明をしてくださいました。子ども達にも、地震のメカニズムが改めてよく分かったと思います。その最後に、先生は「地震は確かに怖くて、用心しないといけませんが、ただ、死者数からいくと戦争が圧倒的に多いのです」と締めくくられました。先の第2次世界大戦は、世界全体で4000~5000万人の人々が命を無くしています。これほど多くの人が亡くなる自然災害はありません。

 人間の罪が一番怖いと言うことになります。改めて、イエス様の十字架の務めとその贖いの大きさを示されます。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2024年1月14日(日)

「人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」   詩編8編5節

  元旦に大地震が起こってこの日曜日は2週間です。おそらく地震の被害の全容がおおよそ分かっていると思います。この巻頭言を書いている時は、1週間目でまだ行方不明者が120人以上もあります。1週間たって不明が120名代ですので、いかにこの能登半島地震が大きかったかが分かります。

 能登半島の市町村の市長さんたちは、これほどの大きな地震は想定していなかったとそれぞれ言われています。人間の知恵の限界というか、自然の力の大きさというか、本当に人間は小さいなと東北大地震の時も思いましたが、又示されます。自衛隊の方もさっと救援物資を支給できないのが、残念だと思います。日本は地震から免れない国です。改めて地震対策を示されます。

 アモス書1章1節には「あの地震の2年前に」とあって、これでアモス書の絶対年代が分かりました。アモスの召命は、紀元前786年だそうです。日本はまだ縄文時代です。日本が滅びても「東北大地震の11年後、能登半島大地震の時」とか後代は記録するのかもしれません。私達人間は本当に小さいです。ただただ、主を見上げて生きるのみです。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

2024年1月7日(日)

「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」   詩編51編12節

  新年、明けましておめでとうございます。2024年が明けました。お天気的には、東北以北は寒いようですが、大方は穏やかに明けた様です。(これを書いている時に能登半島の地震がありました。どうなるでしょうか。)世界の状況もこのように、今年こそは穏やかに平和に推移してほしいです。そのためにひたすら祈ります。

 今年は元旦礼拝をすることができました。不思議なことに、他の教会に行かれていて、元旦礼拝だけに来られる方があって、初めてゆっくりとお話しました。なんと大口(伊佐市)が、故郷とのことでした。上の娘が大口精神病院の栄養士をしており、何度も訪ねて行っていますので、土地勘があります。話が弾んで楽しく話せました。

 また、いつも頼んでいるおせち料理が28日になっても届きません。おかしいなと連絡するとなんと行方不明でした。販売元は出荷しています。ヤマト運輸の方がお詫びの電話を下さり、なんと「一ランク上を持って替えさせて頂きます」とのことでした。なんと元旦の朝に届けられてぎりぎりセーフでした。これは、儲けた、儲けた!!でした。

 2024年はどんな年になるのやらです。戦争停止の平和を祈り、主にお任せしつつ、み言葉に聞き、祈りを献げ、礼拝を捧げて歩みたいです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年12月31日(日)

「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」詩編106編1節

 本日は、2023年の最後の礼拝となりました。今年は、本当に忙しかったです。まず会堂リフォームが23年3月5日に無事に終わり、リフォーム新会堂での礼拝がスタートしました。リフォーム中は、22年9月18日から幼稚園での礼拝となりました。幼稚園のリズム室ににわか講壇を設定し、椅子を並べ、聖書と讃美歌を準備することは、新規伝道を思わせ、こんな風にして借家伝道はされているのか、と言う思いをすることができました。

 4月に、年度が替わってからはリフォーム会堂での礼拝となり、23年6月18日にリフォーム完成礼拝を、宣教120周年礼拝と共にすることができました。紆余曲折しただけに、完成は特に本当に嬉しかったです。

 10月22日にはしかし、臨時総会にて、中山伝道所の閉鎖を決議しました。谷山地区伝道の71年間を閉めるのは、悔しかったです。しかし、私は力不足を思います。ただ中山夕礼拝は、精一杯をして来たつもりです。

 2024年を迎えます。新年は何が起こるのか、また何をなすべきなのか。聖書をひたすら読み、そして聞き、礼拝と祈りを献げ、主のみ前に歩むのみです。 ( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年12月24日(日)

「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。

この方こそ主メシアである。」ルカ伝2章11節

 クリスマスおめでとうございます。

本日は、2023年のクリスマス礼拝となりました。コロナがほぼ収束してのクリスマスです。大きな声で讚美できます。しかし、なんとイエス様がお生まれ下さったイスラエルでは今、戦争中です。平和の主が、お生まれ下さった場所イスラエルでの戦争とは、なんと厳しいクリスマスの状況また現状でしょうか。

 しかし、これは実際にイエス様がお生まれ下さった時代も又似ていると言えます。イエス様がお生まれ下さった時、直ちにヘロデ王はイエス様の命をねらいました。「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人の残らず殺させた」(マタイ伝2章16節)。つまり、ベツレヘムの赤ちゃん殺しが起こったのです。主イエス様のお誕生はこうして、悪魔的な勢力の中で起こったのです。

 しかし、悪魔的な勢力の中にも、主イエス様は、だからこそお生まれ下さったとも受け取れます。悪に打ち負かされることなく、悪の力の中でも、主のみ心を求めて祈りつつ進め。これを示されるクリスマスの出来事です。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年12月17日(日)

「願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる」ヨハネ伝16章24節

 アドベント第3主日を迎えます。次週はいよいよクリスマス礼拝です。しかし、今回はイエス様のお誕生の国イスラエルの戦争中で、なんと悩ましいクリスマスでしょうか。イエス様は平和の主です。平和の主のお誕生の国で戦争しているというのは、最も証にならない状態だと思います。

 先週ラジオで、パレスチナのハマスのやり方が、日本の第2次大戦の開始と似ているという解説をしていました。日本も経済力、軍事力からみれば、一目瞭然の差があるアメリカに真珠湾攻撃をして始まりした。絶対に負けると分かっている戦争に突っ込んだのです。ハマスも軍事力からすれば、イスラエルが圧倒的優位にあることを知っていたはずと言うのです。

  なぜ、それでも最初にハマスは、ミサイルを打ったのか。解説者は、日本と同じで、負けると分かっていたのでしたのです、と言います。戦争は推進する人とそれでも付いて行かざるを得ない民衆があるのですと言われます。

 民族の撲滅は不可能である以上、一緒に歩む道を、国連が作っていくしかないと言われます。イエス様のお生まれ下さったパレスチナの平和を祈るのみです。祈る事しかできない私たちは、しかし、祈ることができるのです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年12月10日(日) 

「ひとりのみどりごが私たちの為に生まれた」          イザヤ9章5節

 待降節第2主日の礼拝を感謝です。皆さんの祈りも空しく、やはりイスラエルのユダヤ人とパレスチナ人の戦いが始まりました。圧倒的なイスラエルの武器の前に、パレスチナ人には多くの被害です。どうでしょうか。イスラエルではダビデがペリシテ人、モアブ人、アラム人、エドム人を倒して、全戦全勝のような機運があるのでしょうか(サムエル記下8章)。

 しかし、イスラエルの方にも、テレビのインタビューでは、戦争をやめてほしいと言う方もありました。こんな戦いがあるのかと、ただただ停戦を祈るのみです。NHK連続朝ドラの『ブギウギ』でも、ちょうど今週は日中戦争からアメリカ軍を奇襲攻撃して、太平洋戦争になるところを放映しています。庶民としては、あんな風に受け止めたのでしょうか。主人公の弟さんは、太平洋戦争になる前に日中戦争で亡くなっていたのです。放映されませんが、中国では本当に酷いことになっていたと思われます。

 私の父は志願兵だったようですが、時々の話では、外地には行かず、松山基地や大村基地にいたようです。徴兵された頑強な兵隊達が、兵舎で故郷を思って泣いていたことを、なぜか話してくれたことがありました。私の戦争の思いは、父の話でしかありません。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年12月3日(日)

「平和を実現する人は、幸いである」   マタイ伝5章9節

 本日から2023年のアドベント(待降節)に入ります。今年は、12月に4回の主日が入るアドベントを迎える典型的な月となります。今、パレスチナ人とイスラエルのユダヤ人の戦闘が休止されています(これは水曜日に書いています)。どうか、この休戦がいつまでも続くことを祈るのみです。

 世界のクリスチャンたちが祈り、他の宗教の方も、自分達の神様に平和を祈っておられると思います。無理かもしれませんが、正直、クリスマスは休戦状態で迎えたいです。

 精神医学者の中井久夫は、随筆家でもあり、戦争について書いておりました。中井は「戦争体験者がいなくなった時、また大きな戦争が起こる」と書いています。その例として湾岸戦争を途中でやめることができたのは、ブッシュ大統領が第2次世界大戦の時、兵士だったからであろう、としていました。フセイン大統領にまんまと騙されたブッシュ大統領はそれでも1ケ月で戦闘をやめました。この時、約10万人の戦死者であろうとされています。

 日本は広島・長崎の原爆があるから戦争嫌悪者が多いとされます。それでいいと思います。たった2つの爆弾で20数万人が亡くなったのです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年11月26日(日) 

「すべての民を私の弟子にしなさい」             マタイ伝28章19節

 本日から世界バプテスト祈祷週間が始まります。毎年のことですが、毎年のバプテスト連盟の女性会の祈りの行事です。そもそもの始まりは、1840年にアメリカのヴァージニア州で生まれ、19歳でイエス様を信じ、1873年、33歳で中国の宣教師となったロティムーン宣教師からです。1912年、72歳で亡くなるまで、40年間の中国の宣教師でありました。

 ロティムーンは、中国の山東省で伝道しましたが、1900年には義和団事変(外国排斥運動)が起こり、日本に避難したこともありました。大変な中の伝道であったと思われます。しかし、宣教は改めて色々な社会情勢の中で並行して行われるのでありましょう。

 今のように、ウクライナの戦争、パレスチナの戦争と福音どころでないのかもしれません。しかし、ロティムーンが「中国人と同じ服を着て、同じものを食べ、中国人のようになって伝える」の指針は、昔も今もこれからも変わらないと思います。イエス様の十字架の贖いと永遠の命の救いは、何があっても伝えられるべき福音です。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年11月19日(日)

「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」             創世記12章8節

 本日は、収穫感謝礼拝です。収穫感謝礼拝のように自然に関するお祝いは、教会では少ないと思います。聖書はほとんどのお祝いが、歴史の出来事です。しかし、収穫感謝礼拝は、アメリカではイギリスからのメイフラワー号の移民の歴史を覚えます。移民とインディアンへの収穫の感謝が、一緒にお祝いされることに特徴があるのだと思います。

 では日本の教会で、なぜするのかです。1つは伝道してくれたアメリカの教会に敬意を払う事でしょうか。そして、2つはやはり自然の恵みの感謝です。

 イスラエルとパレスチナ人の戦いが、毎日放送されます。病院を中心にした戦争で、本当に心が痛みます。毎日弱い人や子ども達が亡くなります。友人牧師が先週説教を送ってきました。「イスラエルが、出エジプトできたのは、武装蜂起したからなのではない。神に祈ったからだ」とありました。全くその通りです。停戦して、どうしたら仲良く歩めるのか、どちらも主に祈るべきです。イスラムのアラーの神は「主なる神様」のことです。聖書の神も「主なる神様」です。一緒に祈れるのです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年11月12日(日)

イエスが来て真ん中にたち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」ヨハネ伝20章19節

 先週は召天者記念礼拝を4年ぶりにすることが許され感謝でした。本当に4年ぶりに出会うご遺族の方々は、それぞれお年を召されましたが、お元気でありました。しかし、4年ぶりの再会がかなわなかったご遺族の方もあり、どうされているのかと祈ります。

 召天者記念式後の茶話会で、ある方が「先生、キリスト教はイスラエルとパレスチナ人の戦争を止められないのは、力がなくなりましたね」と言われました。事実誤認もありますが、本当に戦争が止まってほしいという気持ちからだと思います。答えを見つけることができませんでした。正直「主よ、あなたのみ名が、軽んじられます。何とか停戦させてください」と祈るのみです。

 この戦争は、今日祝福を受ける子ども達にも大いに関係していると思います。子ども達は、平和の内に、成長してほしいし、その賜物を大いに用いる大人になってほしいです。戦争は、それを全部止めてしまいます。主は「平和を創り出す人は幸いである」(マタイ伝5章9節)と言われました。本当に当事者の指導者たちは、知恵を出しあって停戦されることを祈るのみです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

2023年11月5日(日)

「この後、神は、この国の祈りにこたえられた」      サムエル記下 21章14節

 本日は、4年ぶりに(2020年から中止)召天者記念礼拝が出来ることを心より感謝いたします。改めてコロナの影響とその被害の大きさを示されます。また、多くのコロナに罹患された方の話を聞くとその後遺症の長さで、インフルエンザと違う病状の重さに驚きます。

 さて、召天者記念礼拝は、今年は当教会記念堂への納骨や改葬の方があって、昨年からは3名追加されております。それぞれ事情があってのことですが、教会記念堂の働きの重さを示されております。前の臨時総会にて、記念堂委員会が設置承認されましたが、その働きは大きいです。

 すでに納骨式、改葬式で述べたことですが、聖書は、納骨・改葬の大切さをそれぞれに示しています。ヤコブ(イスラエル)の遺骨は改葬でした(創世記50:13)。またサウロ王の遺骨も改葬です(サムエル下21章13節)。それぞれに事情があって、すぐに納骨ができない時、後からでも改葬がなされています。聖書は、納骨・改葬の大切さを示しています。改めて聖書は、亡くなった方の弔いの大切さを示しています。私たちもこれに応えて記念式を守って行きたいと示されます。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

 

2023年10月29日(日) 

「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」  ローマ書3章28節

 先週は、長時間に渡る臨時総会を、本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。「2~3年間を目途に中山集会所を閉鎖する」と決議されました。しかし、多くのしなければならないことがあります。31年間の中山伝道において、いいえ、谷山伝道所からだと1953年開設ですので、なんと70年間の伝道だったことになります。70年間の祈りを閉めるのですから、やはり2~3年間の伝道所を閉める祈りの期間が、必要なのだと思います。

 今日の聖書は、宗教改革記念日から選びました。宗教改革は、ルターが10月31日にドイツのビッテンベルク教会の玄関の扉に「95箇条の提題」を張ったことが発端です。ルターは「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」と聖書信仰をまとめました。これは今でもやはり大切な信仰原理・態度だと思います。人間には何の救う力はない。ただ、主なる神、主イエス様にすがるしかない。これが、信仰義認です。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

2023年10月22日(日)

「私は必ずあの子を大いなる国民とする」  創世期21章18節

 私たちはウクライナとロシアの戦争が早く終わるようにひたすら祈ってきました。しかし、なんとパレスチナで、イスラエルとハマス(ガザを実行支配する勢力)が、地上戦を展開するとされています。(これは水曜日に書いていますので、これが読まれる主日には実際に戦闘になっているかもです)

 パレスチナ問題は、イスラエルが今のパレスチナに国を作って以来ずっと続いています。私たちは日本という極東の端にいるので、パレスチナ問題が起こるたびに、正直、何でこんなに狭いところで何十年間も戦争しないといけないのか、さっぱり理解ができません。ガザもアシュケロンもまさに聖書にでてくる地名であり、士師記13~16章のサムソンの舞台です。

 よく言われるにパレスチナの人々は、アブラハムの息子イシュマエルの子孫で、イスラエルは約束の子イサクの子孫たちと言われます。それから3000~4000年を経過しているので、真偽は確かめようもないです。しかし、聖書ではもし、パレスチナがイシュマエルの子孫たちとしても「私は必ずあの子を大いなる国民とする」(創世記21章18節)として、イシュマエルとその母ハガルを、主は守ると約束されました。つまり、パレスチナとイスラエルは仲良く生きるしかないのです。キリスト者は、2つの民族が平和にまた和解して暮らすように祈るしかありません。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

2023年10月15日(日)

「主がそこから彼らを全地に散らされた」  創世記11章9節

 今日は、佐々木和之ミッションボラティア宣教師より宣教です。このような機会を感謝です。先週は、教会学校のデイキャンプがありました。4年前までは郡山の八重山「テンガラ館」で一泊キャンプでした。しかし、コロナでまだそこまでできません。教会で10時から午後3時まででしたが、1歳から大学生までの20人足らずの参加があり、楽しくできました。テーマは「佐々木和之ミッションボラティアの働きを覚える」でした。

 実はその時、地球物理学の根建先生がルワンダの地形について講義くださったのです。私は佐々木先生の『ウブムエ通信』からお話しました。根建先生の話ででは、なんとアフリカ大陸はあと1億年後に3つにわかれるのだそうです。そして、もっとびっくりしたのは、今5大陸に書かれている地球の大陸は、もともとは一つで一緒になっていたのだ、と言うことです。

 聖書を読まれる方は、すぐに「バベルの塔」を思い出されたと思います。もともとは1つだった。しかし、人間の罪によって、ばらばらになりました。これは、なんと言語だけでなく、もしかしたら大陸もそうだったのか、となんか不思議な一致に驚きました。本当に罪の力とその恐ろしさを考えさせられます。

 平和を創り出す一致は、本当に大切な働きです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

2023年10月8日(日)

「信じない者でなく、信じる者になりなさい」       ヨハネ伝20章27節

 あっという間に10月になりました。先日は高山真理さんのご友人がご夫妻で、「命日です」ということで、お花を霊園に持ってこられました。この方は、この前の教会研修会で講師をしてくださった、保さら先生です。私がこちらに来て20年になりますが、高校の同期生、また一番のご友人ということで、毎年、忘れることなく命日の近くの前の日に、お花を持って来られます。本当に、親しい友人で青春を語り合われた仲だったのでしょう。

  友人と言うと『走れメロス』を思い出します。太宰治の作品でした。友人が帰って来るとの約束を取るのか、自分の命を取るかの選択を迫られて、友人との約束を取るのですが、心の中では疑っていたとなっています。疑いつつしかし、友人を信じることがテーマだったと受け止めます。

  太宰治は生前に、教会に長く通ったと聞いています。「疑いつつ、しかし信じて行く。信じつつ、しかし疑ってしまう」信仰の現実を、聖書から受けたのだと思います。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

2023年10月1日(日)

「あなた方は行って、すべての民を私の弟子としなさい」    マタイによる福音書28章19節

 先週は、鹿児島県の幼稚園協会の研修会にでてきました。異業種交流のプログラムで、鹿児島で一番古い薬局、白男川薬局の3代目の社長さんの講演でした。題は「受け継がれる創業者の精神」です。3代前のお爺ちゃんが満州から引き上げて、鹿児島に開かれた鹿児島第1号の薬局です。

 

 その精神は、「地域の役に立つ薬屋」だそうです。薬屋は、今は3種類に分かれ、おなじみのドラックストアー型、漢方相談型、そして病院に付く製剤薬局型です。それぞれに強みと弱点があるそうです。規制緩和で、昔は一地域に1つしか認められなかった薬局は、自由に出店できます。ただし、いつもでも採算が合わないとつぶれていくのだそうです。

 

 白男川社長さんは、お爺ちゃんの意思を継いで、関東の薬剤師を止め、鹿児島に戻ってきて、地域に役立つことは何でもしているそうです。薬局ですが赤字の老人ホームをなし、コロナの無料検査をなし、びっくりしたのは、何と児童クラブの夏休みのお昼の弁当まで作っているそうです。「地域に役に立つ薬屋になる」という理念を、3代目も一生懸命引き継いでおられる姿に驚きました。

 私たちは、改めてイエス様の宣教理念を生きていくのだと思いました。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

 

2023年9月24日(日)

「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」  マルコによる福音書1章17節

先週は、延岡教会にての南九州地方連合教役者家族研修会に夫婦で出てきました。改めて、延岡の遠さに驚くばかりです。しかし、4年ぶりに家族で出会う先生たちには、本当に感謝でした。

 

講師は昨年引退された、熊本愛泉教会の80歳の濱田先生夫妻で「52年間の牧会を振り返る」というテーマでお話くださいました。奥様も一緒に話してくださったのが良かったと思います。参加は20人足らずでしたが、よいリトリートになりました。濱田先生は、熊本のお生まれで、バプテスマは熊本愛泉教会で、西南神学部を卒業後は、山鹿教会、宮崎教会、東北の鮫教会、三沢教会、臼杵教会、芦屋教会、最後に熊本愛泉教会と6つの教会を牧され、引退されました。お話は波乱万丈の泣き笑いでしたが、一番の苦しみはご子息が自殺されたこと、一番の喜びはやはりバプテスマが起こった時ですとまとめられました。52年間の牧会生活から出るお二人の薫のようなものに、感動して帰りました。赦される限り、主に仕えて行こうと示されました。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

 

2023年9月17日(日)

 「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」   箴言29章18節  

本日から第3週の旧約聖書の聖書は、イザヤ書を1章ずつ読んで聞いて行くことにしました。第3週は、エゼキエル書から5年間に渡り聞いてきました。ようやく終わりました。皆さん、5年間を終えて、エゼキエル書は何を言いたかったのか、だと思います。私も5年間の解き明かしを通じて、心に残ったのは、37章の復活の予言と40章から続く幻の神殿予言です。エゼキエルは、幻の中の幻の神殿の予言を語っていったのです。これは改めて、エゼキエルはバビロンにいた予言者であり、いつでもバビロンから逮捕される危機を持って、主の言葉を、予言しなければならなかったのだと思います。ヨハネの黙示録とエゼキエル書は、境遇が似ているのだと思います。

 

 敵が目前にあり、苦難の中で、しかし、主のみ言葉を求めて語る時に、エゼキエルも長老ヨハネも幻を持って語る方法を取りました。これは、考えさせられます。私たちもまた、戦争と温暖化のこの時代を生きる時、幻を語りつつ、幻を生きるしかないのかもしれません。神の導きと恵みの選びに預かった私たちの使命とも言えるでしょう。

( 田渕 亮 牧 師 ) 

 

 

2023年9月10日(日)

「たとえ、遅くなっても待ち望め。それは必ず来る。遅れることはない」 ハバクク書2章3節

 先週は、教会の行事表に書くのを忘れましたが、第2回コーチングセミナーがあって、テーマが「これからの教会形成」ですので、出てきました。出ていると本当にこれからの教会をどうするのか、特に日本の教会がどうなるのか、どの教派の牧師たちも信徒と共に真剣に祈っておられます。どの教会も、若い方がなかなか集まらず、悪戦苦闘です。いくつかの証がありました。

 1,今まで先輩の教会や成功した牧師たちの真似をしてやって来たが、現実には、本当にこれでいいのかいつも問われている。数を目標にした牧会はできないのでないか。2,自分は120%の力を注いで家族を省みず、牧会と教会成長に力を尽くしてきた。しかし、若い牧師さんたちを見ていると自分の牧会スタイルは呪いの様に思える。若い先生に引き継ぐためには新しい牧会スタイルが必要であり、今こそ教会の本質を見きわめる時でないか。3,とにかく若い人達と子ども達に、どう関係を作っていくのかが課題である。と言った具合でした。

 

改めて過渡期であり、昔の牧師のスタイルは、呪いにもなりかねないというのは、ちょっと言い過ぎですが、考えさせられます。教会は今までいくつかの危機を乗り越えてきました。今の若い人達との接点と子どもへの伝道は、本当に祈り、解決を主に求めるのみです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

2023年9月3日(日)

「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。」詩編24編1節

 あっという間に9月に入ります。暑かった夏も、朝と夜は少ししのげるようになっています。しかし、まだまだ暑いです。今日は振起日礼拝です。この礼拝が起こった背景を調べたことはないですが、暑い夏に礼拝出席が少なったのを、奮い立たせるくらいの意味であろうと思います。

  新聞テレビは、汚染水の海中投棄を問題にしています。心痛い問題です。改めて、私も今頃こんな方法しかないのかと調べてみました。処理の仕方はいくつかの方法があるようです。1,地層注入(地層深く埋める)、2,水蒸気放出(空中に放出)、3,長期保存(このままずっと保管)、4,コンクリート固定(コンクリートで固める)、5,今回の海中放出である。IAEAの動画では、6年間協議のすえに、5の水中放出が、モニタリングができるのでいいのでないか、としているとのことです。

  でも、どれもトリチウムを取り除くわけでありません。海中投棄は無い方がいいに決まっています。どうしたらいいのか。30年間も放出は続くそうです。人間の知恵の限界を知らされます。30年間の間に、もっといい方法が出て来ることを、ただ祈るのみです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

2023年8月27日(日)

「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」使徒言行録4章12節

 夏休みから教会『教父思想入門』を読んでいます。バプテストでは余り取り上げられませんが、ミラノの寛容令(313年)以前の教父たちは、バプテストに非常に似ております。そこに例にもれず殉教者キプリアリヌスがいます。AD200年頃アフリカのカルタゴで生まれ、258年にバレリアヌス帝の迫害で殉教しました。

 この人の残した言葉に「教会は信仰の母である」と言うのがあります。これはガラテア4章26節からヒントを得て、キプリアリヌスが大切にしたことばとされています。なるほど、私たちの信仰は弱く、仲間の信徒たちに支えられながら、この世を歩んでいくのです。つまずきそうになって励まされ、高慢になってまた注意されて、なんとかイエス様への十字架と復活の信仰を維持していくのだと思います。

  キプリアリヌスは「教会以外に救いはない」とも言ったそうです。これは、おそらく言行録4章12節をヒントにしたと思いますが、これがカトリック教会の絶対性になってしまって、ルターが出てきます。「教会以外に救いはない」は誤解を生みますが、「他の誰によっても救いは得られない」言行録4章12節は、イエス様以外に救いを与える者はないということです。

 私たちはイエス様に結び付き、父なる神と聖霊によって、支えられて教会を母としてこの世を歩むのです。

( 田渕 亮 牧 師 )

 

 

2023年 8月20日(日)

 「平和を実現する人は、幸いである」マタイによる福音書5章9節

  先週は、夏休暇を頂き、感謝でした。今年は、義理の母の初盆でもあり、ただキリスト教では初盆の習慣はないのですが、帰省の墓参りはせずに、こちらにじっとして慰霊することにしました。下の娘が帰って来たので、えびの高原一帯をドライブして、一泊してきました。娘たちには、中学・高校時代は、バスケと勉強だけの日々となり、鹿児島の有名な場所もあまり一緒に行ってないことを、申し訳なく思っております。

  15日の敗戦記念日の新聞には、沖縄の糸満市の平和の礎の碑に、鹿児島の方で、沖縄での戦死者の方がようやく名を刻まれた話が記載されていました。読みますと何と名を削ってくれという申し出もあり、沖縄県はそれに応えているそうです。そして、この方のように、沖縄戦で亡くなったのに名がない方もあり、ご遺族の申し出で、名を刻むそうです。戦後78年間たっても、このようなことが、鹿児島県だけで、年に数件あるのだと書いてあります。

  NHKのお盆の夏の戦争のドキュメントはウクライナの戦闘行方不明者を扱っておりました。こういうのを見ると本当に戦争の愚かさ、悲惨さ、悲しさを示され、続けて1日も早く戦闘の停止を祈るのみです。

( 田渕 亮 牧 師 )