私たちの教会

私たち日本バプテスト鹿児島基督教会は、1902年9月、初代宣教師GF・ハンブルトン師が鹿児島に視察に訪れ、1014日鹿児島に着任。鹿児島出身牧師の小畑定家師と共に開拓伝道が開始され、以来、120年の時を重ねました。戦前、戦中、戦後。数えきれない信仰の先達の方々の思いに心を寄せつつ。鹿児島基督教会の歴史を追ってまいります。

間違いもあるかもしれません。ご了承下さい。(20238月末日現在)

 

 

1902年(明治35年
G
F・ハンブルトン宣教師(初代宣教師)・小畑定家牧師(初代牧師)、来鹿。

伝道拠点として、鹿児島市平之町224番地を定める。

1014日鹿児島に赴任。

 

1903年(明治36年
2GF・ハンブルトン宣教師、日本語での礼拝説教を始める。

講義所(伝道所)から教会となる。

11月教会組織。その名を「鹿児島浸礼教会」とした。

 

ハンブルトン宣教師1903年レポートより

『鹿児島は最も南の重要な地。他の日本の町から山が壁となって離れているため、日本語が通じない方言を持っている。習慣も独特である。戦争中、政治的に有名な日本人が鹿児島から出ている。3年ほど前から、キリスト教に対する好ましい変化が人々の間に起った。 私たちの家と説教する場所は、働くに大変良いところでした。人々は、私たちを見るために、そして、キリスト教の質問をするために毎日やってきた。日曜礼拝には20名ほどいつもきている。・・・我が家の日曜学校は65名ほどだった。私が町に来てから二人のバプテスマがあった。』(宣教100周年記念誌より播磨聡牧師訳)

 

1904年(明治37年

教会所在地は鹿児島市西千石町。

 

ハンブルトン宣教師1904年レポートより

『一年中、大いなる献身をもって働いた。その働きはまだ始まったばかりだが、人々が参加する礼拝は励まされるものだった。私たちの群れの中から、何人かが離れていき、何かが壊れてしまった。しかし、彼らが新しい場所において、真実がもたれることを喜んでいる。私たちは欠席している人々にも接触し続けている。年間を通して8人がバプテスマを受け、求道者も何人もいる。バプテスマを求める何人かは、ひっつかまえられて連れ去られ、古い現実に連れ帰されたり、バプテスマを禁止されている。現在(注:日露戦争)がおこなわれているが、駐屯地を訪問し、トラクトと聖書を 頒布した。ハンブルトン夫人は、自宅で日曜学校を行い、主の祈りや聖書の暗記に努め、80人の子どもたちが集まっている。・・・人々の優しさは、仕事の中で、私たちの喜びです。そして、神の祝福を、多くの信者たちが増やされる中で感じています。』(宣教100周年記念誌より播磨聡牧師訳)

 

1906年(明治39年
小畑定家牧師、熊本教会へ異動。

6 千葉勇五郎牧師(第二代牧師)・荒瀬鶴喜牧師(第三代牧師)が着任。
6
19GF・ハンブルトン宣教師 帰国。

 

1907年(明治40年
婦人会結成。

2 千葉勇五郎牧師、福岡バプテスト神学校設立のため異動(10月開校式:校長として就任)。                             GW・ボールディン宣教師(第二代宣教師)夫妻来鹿。

ボールディン夫妻は、鹿児島教会会堂と牧師館の土地購入。

 

1908年(明治41年
6GWボールディン夫妻は福岡バプテスト神学校の働きのため異動。

6PP・メドリング宣教師(第三代宣教師)着任。

荒瀬鶴喜牧師、八幡教会へ異動。(荒瀬昇牧師の父)

岩永英作牧師(第四代牧師)就任。                                                    11 鹿児島市二官橋通り上:平角之屋敷を会堂新築地として買収3600円。礼拝開始。

西千石町教会は閉鎖。

 

1910(明治43年)

12月メドリング宣教師の米国の父母より会堂建築のため1,000ドル寄贈。

 

1911年(明治44年
岩永英作牧師、若松バプテスト講義所牧師として異動。                                                     菅野半次牧師(第五代牧師)着任。

 

1917年(大正06年

411 鹿児島市山下町上之平207番地に会堂新築。献堂式。

 

1918年(大正07年)

41416 西南部会25周年記念バプテスト覚醒伝道集会が鹿児島教会にて開催(214名来会)。

 

1919年(大正08年
12
31 PP・メドリング宣教師、急性流行感冒(スペイン風邪)のため急逝(39歳)。

草牟田墓地に埋葬。

 

『日本に遣わされて』 宣教師ミス・ピートの本国への手紙-鹿児島編-より-日本キリスト教団鹿児島城南教会1983年‐                     「・・・南バプテスト・ミッションのメドリング氏の亡骸を、昨年の最後の日に葬りました。インフルエンザが原因です。奥様と五人の幼児たちが残され、一番下はまだ三か月そこそこで、全員まだインフルエンザで床についていますが、皆だんだん快方に向かっています。29日、クリスマスのお祝いでくたくたになって帰宅したところへ、メドリング家からの使いが来て、メドリング氏が危篤ということでした。男子の外国人は誰もいませんでした。ミス・フィンレーと私はそれから二日間、メドリング家と我が家を何度も往復し、次の朝、メドリング氏は亡くなり、その日の夕方葬られました。私は食物を用意して、あの家族の病人たちに届ける役目を受け持ちました。ミス・フィンレーはメドリング夫人の所に一晩泊り、子どもたちの世話を手伝いました。メドリング氏は大変丈夫な方なのに、インフルエンザはほとんど心臓を直撃したのです。葬儀品についてもわからず、私たちがいう棺という物も見られない国、死人に対しての考え方も全く異なる国では、耐え難い経験です。・・・」(1920年1月5日記:宣教100周年記念誌より)

 

1920年(大正09年

120日メドリング宣教師追悼会。

20 西南部会が鹿児島教会を会場に開催され、メドリング宣教師を追悼した。                                                            6 メドリング夫人は5人の子どもの教育のため故郷テネシー州レバノンに帰国。

(戦後、メドリング宣教師の遺児WE・メドリング氏は、宣教師として日本で宣教活動を行った。)

 

1921(大正10年)

411日菅野半次牧師ご奉仕10年祝賀会開催。

                                    

1922(大正11年) 

311日西部バプテス第13回教役者会が鹿児島教会にて開催。

メドリング宣教師追悼会。メドリング夫人に挨拶状送付。

412日西部バプテスト組合年会開催。

 

 

1928年(昭和03年
菅野半次牧師、飯塚教会へ転任。(菅野救爾牧師の父)
青柳茂牧師(第六代牧師)就任。

道路拡張のため教会の土地の一部を売却。その代金で牧師館の修理を行う。

 

1930年(昭和05年

菅野半次牧師が開始した垂水伝道は3月に神学校を卒業した麦野七右衛門牧師が引き継ぐ。

伊集院伝道開始。麦野七右衛門師が伊集院伝道を担当(一年後初穂が与えられ、教会組織へ)

 

1931年(昭和06年

青柳茂牧師、川崎教会へ転任。

8 金子哲夫牧師(第七代牧師)就任。

 

『日本バプテスト連盟史』(1889-1946年より)

1931年、日曜礼拝15名。特別集会をするも、反響なし。永い時を持って格別の忍耐と個人接触という伝道法を無視してこの地に伝道することは、無謀も甚だしいということを、金子哲夫氏は実感していた。」(宣教100周年記念誌より)

 

1932年(昭和07年
鹿児島フィールド(宣教団)は、鹿児島・伊集院・垂水・市来にて集会開催。宣教団からの活動費の減少に伴い、また、垂水が立地的にやや離れており、困難であるため、垂水での活動を中断。           

 

1934年(昭和09年
3
 金子哲雄牧師、門司教会へ転任。(金子純雄牧師の父)
岡田壽美(かずみ)牧師(第八代牧師)就任。                                                      当時はハンセン病に強い偏見のある中、国立ライ療養所星塚敬愛園で毎週聖書講義を行う。

戦争に向かう時代で、礼拝出席者数は78名という出席状況。

 

1937年(昭和12年

鹿児島教会は日本基督教連盟の指示により慰問袋作成。

市内6教会と連合して、金100円献金を恤兵慰問金として新聞社を通し送金。

各教会員は一日一銭献金をし、応召者遺家族支援にあたる。婦人会は応召者家庭訪問をなす。

日曜学校家庭より8人の応召者(召集令状に応じた方)を出した。伝道の門戸次第に閉ざされる。

 

『バプテスト』(第85 193761日より)

日曜学校近況について

「鹿児島バプテスト教会日曜学校。市内の他派の日曜学校は教会員の師弟に限定されているとの事ですが、当教会では近隣の子どもたちの教育にあたっています。他教会では、近所の子どもを獲得するのに困難を感じ、私どもの方では、堅実な教会員の師弟のいないことを寂しく思っています。生徒40名、教師2名、生徒自身がグループで不出席者を訪問,一週間ほどの夏期聖書学校を計画中。」(宣教100周年記念誌より)

 

1940年(昭和15年

12月谷廣虎三牧師、鹿児島へ。

 

1941年(昭和16年
岡田壽美牧師辞任。
谷広虎三牧師(第九代牧師)就任。

 

1942年(昭和17年

日本基督教団『第4回大会記録』から、教会名は、「鹿児島上ノ平教会」とある。

 

1944年(昭和19年

谷廣広虎三牧師辞任。日本基督教団名古屋新生教会に移籍。

 

1945年(昭和20年
教会堂及び牧師館、戦災により会堂が焼失。教会員も疎開により活動停止(1947年まで)。

教会員の消息も分らなくなる。

                                                    

1947年(昭和22年
日本基督教団から独立した16の教会からスタートしたバプテスト連盟は、鹿児島を伝道再開の地と決め、その仕事を委任された麦野七右衛門牧師(第十代牧師)が伊集院教会との兼務で伝道にあたる。

 

1948(昭和23年)

8月頃 数名の教会員が共に集い、「平和になったのでまた日曜礼拝を始めよう!」と、知り合いの家を借りて礼拝を始める。信徒約10名。説教は麦野七右衛門牧師。それ以降礼拝は毎週日曜日に行われた。

 

1950(昭和25年)
815 日本バプテスト連盟に加盟。

鹿児島市鴨池2丁目23番地17号(現在地)の土地、建物(礼拝堂兼牧師館)を購入。

 

1951(昭和26年)
4月 鈴木正名牧師(第十一代牧師)就任。
5
月 EL・オリバー宣教師(第四代宣教師)着任。
10
 鈴木正名牧師、恵泉教会協力牧師として異動。
伊集院教会麦野七右衛門牧師兼任牧師となる

 

1952年(昭和27年
4 宗教法人日本バプテスト鹿児島基督教会附属めぐみ幼稚園設立。                                                           園長麦野七右衛門牧師(めぐみ幼稚園初代園長)。園児数約30名からスタート。

930 鹿児島県に宗教法人としての認可申請を行う。

 

1953年(昭和28年) 
4 真邊敏夫牧師(第十二代牧師)就任。園長兼務(めぐみ幼稚園第2代園長)
谷山伝道所開始                                                                 7 一度に15名ものバプテスマが与えられる。(今年度内の受信者は25名。そのうち7名はめぐみ幼稚園児の母であった。)

 

1954(昭和29年)
110 鹿児島ブロック年頭修養会が鹿児島教会にて開催。

4 1 鹿児島県において宗教法人規則が認可。

鹿児島市鴨池2丁目23番地17号に教会堂新築。                                                           教会50年史編纂の取り組みなされる。

 

1955年(昭和30年
4 種子島伝道所開設。

真鼻敏夫牧師とオリバー宣教師は、交代で、毎週定期的に伝道のため来島。

 

1957(昭和32年)

三ヶ月に一度の割合で、主の晩餐式が行われる。

 

1958年(昭和33年

119日定期総会にて寺園喜基兄を西南学院大学神学科に推薦決議。

2主日は刑務所訪問。

種子島伝道所閉鎖。

 

1959(昭和34年)

118 定期総会にて、田代敬兄を西南学院大学神学科に推薦決議。                                                               主の晩餐式が毎月第三主日に行われる。

11815日宣教70周年記念伝道(PP・メドリング宣教師召天40年記念)が開催。

 

1960(昭和35年)

710 オリバー宣教師の定期休暇のため送別会。

 

1961(昭和36年)
728 オリバー宣教師帰鹿。

1119日メドリング宣教師を記念し、 PP・メドリング記念教育館(幼稚園職員室)献堂式。

125 オリバー宣教師離任。

 

1962(昭和37年
9 鹿児島市小松原に谷山伝道所会堂と牧師館を建築着工。

923 谷山伝道所に、内藤淳一郎牧師(谷山伝道所初代牧師)就任。

 

1963(昭和38年)

217日谷山伝道所献堂式。

 

1965(昭和40年

鹿児島市紫原のオリバー宣教師館を紫原伝道所とする。

 

1967(昭和42年)
2 真鼻敏夫牧師辞任。同時に牧師を辞し、鹿児島に居住される。
内藤淳一郎牧師、鹿児島教会の牧師(第十三代)として鹿児島教会に移り、谷山伝道所を兼牧。

 

1969(昭和44年)

32 宣教開始67年記念礼拝と、メドリング宣教師の記念会(草牟田墓地)

1130日鹿児島教会姉妹教会に、米国テキサスBryan第一バプテスト教会が決定。

 

1970(昭和45年)

719 米国テキサスBryan第一バプテスト教会チームが、世界バプテスト東京大会出席後、来鹿。

 

1971(昭和46年)

10月23-24 鹿児島教会にて開催された青年会修養会の講師として、PP・メドリング宣教師の遺児WE・メドリング氏が来鹿。主日礼拝の説教に与る。

 

1972(昭和47年)

4月イースター礼拝と共に、故人記念礼拝を行う。                                                   917日臨時総会にて、会堂一期工事としてめぐみ幼稚園園舎と牧師館の着工を翌年7月をめどに行うと決議。

 

1973(昭和48年)
3
18 内藤淳一郎牧師、連盟宣教室主事となり、牧師離任式。

4月より、礼拝開始時間を11時から、1015分へ変更。
4
2 石堂栄牧師(第十四代牧師)就任。

 

1974(昭和49年)
2
24 会堂建築20周年記念礼拝。

5月 めぐみ幼稚園園舎竣工。

5月26日めぐみ幼稚園新園舎落成式。


1976年(昭和51年)                                                          8月 山伝道所、区画整理により、谷山伝道所の牧師館移転。

定例集会の休止。閉鎖。

 

1978年(昭和53年

毎月第13㈭家庭集会と、毎月第13㈮婦人読書会開催。

子ども聖歌隊結成。

 

1979年(昭和54年

318日定期総会にて、谷山伝道所は、現在地を売却し、他の土地を探すことを決議。

 

1980(昭和55年)
5 石堂栄牧師辞任。

6月より無牧。月二回南九州地方連合の牧師会に依頼。月二回は教会員で宣教を守る。

無牧師期間の礼拝説教奉仕者名 (感謝と敬意をもってお名前を挙げさせていただきます。)

真鼻敏夫師・麦野賦師・境雄二郎師・高木康師・山下俊郎師・麦野七右衛門師・藤田吉信師・岡秀雄師・小桜俊治師・友納徳治師・叶昌全師・保田井進師・ジュージ・ヒンマン宣教師・青野太潮師・金子純雄師・オリバー宣教師・寺園喜基師。

 

1981(昭和56年)

1018 めぐみ幼稚園30周年大運動会開催。

無牧期間の礼拝説教奉仕者

青野太潮師・斎藤剛毅師・EL・オリバー氏・松倉治師・片山寛神学生・友納徳治師・平良仁志師・天野有神学生・森泰男師・山田雄次師・渡部信師・内藤淳一郎師・西條由紀夫神学生・麦野賦師・平良憲誠師・安藤榮二師。祈祷会奨励奉仕は教会員31名にて行う。

 

1982(昭和57年)

教会事務設置。

3 寺園喜基牧師に、一年間の協力牧師を依頼し受諾。
4
 渡部信牧師(第十五代牧師)就任。
5
 召天者記念堂献堂式。

谷山伝道所に佐多洋明・多視子ご夫妻入居。

912日 宣教80周年記念礼拝(連盟常務理事金子純雄師)

 

1983年(昭和58年

28 真鼻敏夫牧師告別式。

 

1984(昭和59年)
3 渡部信牧師、水戸教会牧師として異動。

4月より無牧。

5 寺園喜基牧師に再び協力牧師を依頼、受託。

8か月間の無牧期間の礼拝説教奉仕者

中村和夫師・麦野七右衛門師・松村誠一神学生・川上敏夫神学生・FC・パーカー宣教師・山田雄次師・杉山修一神学生・荒瀬昇師・金子純雄師・明石徹神学生・天野有師・LK・シート師・内田裕二神学生・小名田徳房師・麦野賦師・吉田晃児師・森康男師・瀬戸毅義師・小桜俊治師・青野太潮師・JW・ダーリー師。

 

1985(昭和60年)
2 岸田豊博牧師(第十六代牧師)就任。

217 寺園喜基牧師に1985年度の協力牧師を依頼、受託。
10
6 鹿児島教会牧師館を解体し、牧師館新築()竣工式。

伝道所開設委員会設置。

小羊会発足。

 

1986年(昭和61年

3月寺園喜基協力牧師辞任。

 

1987(昭和62年)

3 谷山地区に単立教会を形成する方々との株分け派遣。

89 臨時総会にて、開拓伝道再開決定。

 

1988(昭和63年) 

佐々木和之兄をエチオピア(日本国際飢餓対策機構)・福山誠兄をタンザニア(海外青年協力隊)に派遣。

 

1989(昭和64年・平成元年)

42日臨時総会にて、開拓伝道委員会設置。

11 幼児祝福式開始。

1224日より新生讃美歌使用開始。

 

1990(平成2年)
3
31 岸田豊博牧師、牧師を引退され鹿児島(喜入)に居住される。名誉牧師となる。

4月より第13主日礼拝説教を岸田豊博名誉牧師が担当。その他は教会員が交代で奉仕。
11
15 播磨聡牧師(第十七代牧師)着任。

オルガン(イタリア製)購入。

 

1991(平成3年)
61 岸田豊博名誉牧師(第十六代牧師)召天。

721 開拓伝道研修会と候補地決議。

1228 桜ヶ丘集会所開設

 

1992(平成4年)

29 中山伝道所土地購入を決議。
41 徳渕敬尚牧師(第十八代牧師・中山伝道所)着任。
6
14 故岸田名誉牧師記念会。説教集『この身このままに』発行。

823 臨時総会にて、中山伝道所開始決議。

830 株分け派遣礼拝。

96 中山伝道所会所礼拝(9月より桜ヶ丘集会所にて独自礼拝開始)。

99 中山伝道所会堂・牧師館起工式。

 

1993(平成5年)

215 中山伝道所会堂、牧師館引き渡し。

221 中山伝道所新会堂での礼拝開始。

52 中山伝道所開所・献堂式(100)

 

1995(平成7年)

513 鹿児島教会主催で鴨池釣り教室開催(1999年度まで)

64 特別集会~敗戦50年記念「キリストを証する」~発行。

78~9日 青年会独自で青年伝道隊結成。(種子島伝道所へ6名参加)

11月 鹿児島教会堂壁補修工事。

 

1997(平成9年)                                                                                             101523 宣教100年記念事業の一環で、鹿児島教会主催イスラエル聖地旅行開催(20名参加)

 

1998(平成10年)

 4月より 新共同訳聖書使用。

104 教会員有志の星塚敬愛園恵生教会訪問。

鹿屋、元ハンセン氏病療養所鹿屋敬愛園恵生教会との交流始まる。

鹿児島教会信仰告白作成のための学習会開催。

11 召天者記念礼拝(イースターより11月に変更)。

 

2000(平成12年)
3
 徳渕敬尚牧師辞任。(2001年度から児湯教会に就任。)

4 中山伝道所、日曜午後15時からの礼拝を播磨聡牧師担当。

4月より新共同訳聖書の使用を決議。

1029日臨時総会にて、城俊幸兄を西南大学神学部に推薦決議。

 

2001(平成13年)

中山伝道所が鹿児島教会の礼拝に合流。
8
5 平山公司伝道師(中山伝道所)就任。

12 寺園喜基牧師に播磨聡牧師辞任後の無牧期間中の協力牧師を依頼。再々の依頼にもかかわらず寺園喜基牧師、受託。

 

2002年(平成14年
3 播磨聡牧師、連盟宣教部主事として異動。

720 めぐみ幼稚園50周年記念同窓会開催。

1013 鹿児島教会、宣教100年記念礼拝(宣教:内藤淳一郎第十三代牧師)

無牧師の中、平山公司中山伝道所伝道師の働きにより支えられる。

無牧期間の礼拝説教・主の晩餐式奉仕者

寺園喜基師・安藤榮雄師・麦野賦師・川内活也師・川内裕子師・マウマウタン師・南圭生師・平良憲誠師・友納徳治師・今村幸文師・末松隆夫師。

 

2003(平成15)

無牧師の中、平山公司伝道師の働きにより支えられ、結婚式・葬儀も守られる。
8
28 田渕亮牧師(第十九代牧師)着任。

 

2004(平成16年)

118 臨時総会にて、平山公司伝道師を辞任。副牧師として就任。

 

2007(平成19年)
平山公司副牧師辞任。

4 めぐみ幼稚園が、学校法人鹿児島めぐみ学園めぐみ幼稚園となる。

 

2013(平成25年)
めぐみ幼稚園新園舎工事施工。

めぐみ幼稚園新園舎完成。

 

2015年(平成27年)

4 学校法人鹿児島めぐみ学園 幼保連携型認定こども園 めぐみ幼稚園となる。

 

2016(平成28年)

中山伝道所内に、中山小羊児童クラブ発足。

 

2021(令和3年) 

4 鹿児島教会・会堂リフォーム建設委員会発足。

 

2022(令和4年)

9月5 鹿児島教会・会堂リフォーム工事起工式。

 

2023(令和5年)

2月23日 鹿児島教会・会堂リフォーム工事完成・引き渡し式。

3月5日 鹿児島教会・会堂リフォーム完成後初めての礼拝。

6月18日 鹿児島教会、宣教120周年記念(会堂リフォーム完成感謝)礼拝(宣教:寺園喜基牧師)。

7月30日 教育研修会(保さら先生:性的マイノリティについて学ぶ)

10月15日ルワンダ国際ミッションボランティア佐々木和之IMV・恵さん宣教

10月28日 森祐理さんチャペルコンサート

 

2024年(令和6年)

7月29~30日 南九州地方連合バプテスト大会㏌鹿児島(会場教会)

8月11日 交換講壇 希望キリスト教会 松本貢牧師

10月20日 秋の特別礼拝と信徒会 踊一郎牧師「信じること 生きること」